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2011年6月28日 (火)

「父がつくった貴金属メッキ企業を再建。異業種から「転身」した一人娘の挑戦」

「父がつくった貴金属メッキ企業を再建。
異業種から「転身」した一人娘の挑戦」

掲載日:2011年 6月10日 Science Portal

詳細は、リンクを参照して下さい。

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 中小企業の経営者を取材していて、
いちばん頭を悩ますことを尋ねると、まず
後継者問題が挙がってくる。
 「息子に後を継がせる予定だが、社を
まとめていけるだろうか…」「長年苦労を
共にしてきた部下に任そうと思うが…」
などなど。

 埼玉県さいたま市にある貴金属メッキの
日本電鍍工業は、伊藤麻美さんが社長に
就任して11年を迎えた。

 伊藤さんの父が欧米の技術を越える
「高速度合金圧付け金メッキ法」の開発に
成功して起業。
 会社設立の1958年(昭和33年)には
セイコーやシチズンなど大手時計メーカー
の指定工場になるなど、その技術力には定評
があり、貴金属メッキのリーディング
カンパニーでもあった。

 「父が亡くなって20年がたちます。
 65歳の早過ぎる死でしたが、一人娘の
私に会社を継がせるつもりはなかったで
しょうし、娘にできるはずがないと考えて
いたのでしょうね。

 私自身も継ぐつもりは全くなかったん
ですよ」と、伊藤社長は屈託なく笑う。

 伊藤さんの生まれは東京・港区の飯倉。
 閑静な住宅街の大きな一戸建てだった。
 幼稚園からインターナショナルスクール
に通い、オーナーの一人娘として・
なに不自由なく・育った。

 会社は他社に先駆けて新技術を導入する
など増収増益を繰り返し、年間の売上げが
40~50億円に達し、200名弱の社員を抱える
優良企業に成長していく。

 「大学を卒業して、ラジオのディスク
ジョッキーの道へ進みました。
 父が亡くなったのは23歳のときです。
 あまりにも突然でしたが、会社には
十分な資産があり、心配することは
ありませんでした」

 相手の目をまっすぐに見ながら一語一語
丁寧に、そして滑舌のよい口調は、DJ時代
をほうふつとさせる。

 伊藤さんは自らの人生と会社が交差する
ことは考えられなかったという。
 その後、宝飾関係のジュエラー
(鑑定・鑑別士)の資格を得るためにアメリカ
に留学。
 現地で自立する道筋が見えた頃、「会社
の経営が思わしくなく、担保に入っていた
自宅がとられそうだ」と連絡が来て、
慌てて帰国することになった。

「一言で言えば、放漫経営ですね」

 伊藤さんは会社がおかしくなった原因を
聞かれて、即座にこう答える。

 「バブル経済がはじけた時期とも重なって
いるのですが、製造コストの安い海外へ
仕事が流れていく時代に、同じことを続けて
いて時代に対応できていなかったと
思います」

 40億円近くあった資産がなくなり、逆に
借り入れがどんどん膨らんでいったという。
 それでも当時の社長は何の手だてもしない
状況が続いていた。

 社長に就任したのは自ら行動を起こさ
なければと思い考えた結果だった。

 しかし、メッキのことはもちろん、
会社経営のことも全く分からない。
 周囲に相談してもみんな反対だったと
言う。

 「その道のプロの税理士さんからも再建
は無理と言われていました。
 でも、父の作った会社に愛着があり、
技術力は高いと言われていたので、ひょっと
したら何とかなるかもしれないという気は
ありました。

 親兄弟もなく、失うものは何もないから
…こうなったら開き直りですね」。
 伊藤さんはテンポよく語る。

 前社長時代のリストラで社員は最盛期の
4分の1の50人に減り、平均年齢58歳の会社
に、32歳の社長が誕生したのである。

 一方、迎え入れる社員の反応はさまざま
だったという。

 「社長就任のときに『私一人でできる
ことではないので皆さんの力が必要です。
 一緒に成長していきましょう』みたいな
ことを言いました。
 それを聞いて辞めるのを踏みとどまって
くれた社員もいれば、冷ややかに見ている
人もいました」

 伊藤新社長が最初に手掛けたのは、担保に
入っていた自宅の売却。
 まさしくマイナスからのスタートだった。
 当時を次のように振り返る。
 「初めは何をしてよいのかわからず、会社
の掃除や草取りです。
 そして、すべての部署を回って全社員と
あいさつするように心掛けました。
 まずコミュニケーションありきです。
 社員と語り合っていくなかで、情報を
公開し、会社の財務状況を知ってもらうこと
に努めました」

 あいさつと情報公開は現在も続き、同社
の「伝統」になっている。

 本業となる貴金属メッキについては、
時計以外の分野への進出が喫緊の課題
だった。

 「IT時代を迎えていましたが、まだ
ホームページを持っているところは少なく、
参考書を見ながら自分たちで立ち上げたり、
貴金属加工業のネットワークに加入したり、
できることは何でもやりました。

 展示会にブースを出している企業に営業
をかけたり…。
 名刺交換すると、皆さん、『えっ!』と
驚かれるんですね。
 でも、なかには『応援してやるよ』と
声を掛けてくれるところも出てきました」
と、伊藤社長はほほえむ。

 その頃、医療器具メーカーから特殊な
カテーテルにメッキを施せないかと打診
される。さまざまな工夫を凝らして何とか
金メッキを施すことに成功。
 医療器具分野に進出していくことになる。
 さらに、メッキの種類やムラのあるなし
によって音色が微妙に変わるという管楽器、
金属アレルギーを起こさない
イオンプレーティングなど、多様な分野にも
積極的に乗り出し販路を拡げていった。

 それを可能にしているのが、「メッキ技術
ならどこにも負けないという
モチベーション」だという。

 同社では作業現場に技能者を配置し、
そしてメッキ液の品質管理には技術者が
携わるなど、丁寧な手作業の部分を多く
残しているのが特徴だ。
 取引先も月に300~400社に上る。
 少量多品種に特化して、就任3年目にして
黒字化を果たしたという。

 「石の上にも3年といいますから、3年を
一つの目安にしていました。
 とはいっても、銀行の返済は待っては
くれませんから、資金繰りには苦労の連続
で、正常化するまで、スタートから6年
かかりました。

 ただ、どんなに苦しくなってもリストラ
はしません。
 社の雰囲気が悪くなりますから。
 今、会社がどういう状態にあるのか、
どういうことに取り組んでいるのかなど、
情報はすべてオープンにしていることで、
社員の意識は高くなっていると感じます」

 2008年に同社は創業50周年を迎えた。
 次の目標はその先の50年だという。
 リーマンショックでは打撃を受けたが、
社員を10人増やして20年先、30年先を
見据えた経営戦略を立てている。

 「目標は100年企業。
 当然時代は変わるでしょうし、メッキ
とか表面処理の技術がどうなっていくのか
分かりませんが、技術開発に挑戦していく
ことで、企業は存続できると思います」
と、力強い言葉が返ってきた。

 家に帰れば、5歳の子どもの母親である
伊藤社長。
 家と会社の1時間の通勤時間が心を
リセットするよい時間になっているという。
 さらなる飛躍を求めて、まだまだ挑戦は
続く。
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素晴らしい。
こういう話を聞くと勇気が湧きますね。

>自ら行動を起こさなければと思い
>考えた結果だった
マイナスからのスタート。何も知らない。
良く思い切ったものだと思います。

世の中は変化し続けています。
一時も同じではない。
世の中の変化に気づくことが大切です。

>製造コストの安い海外へ仕事が流れて
>いく時代に、同じことを続けていて
>時代に対応できていなかったと思います
的確な判断ですね。

どういう人が社長に適しているか?
いろいろあるとは思いますが、

感心したことを以下に、

>技術開発に挑戦していくことで、企業は
>存続できると思います」
挑戦すること。

>あいさつと情報公開は現在も続き、
>同社の「伝統」になっている。

>どんなに苦しくなってもリストラは
>しません。社の雰囲気が悪くなります
>から。今、会社がどういう状態にある
>のか、どういうことに取り組んでいる
>のかなど、情報はすべてオープンに
>していることで、社員の意識は高く
>なっていると感じます
情報はオープンであること。
安易なリストラはしないこと。

>20年先、30年先を見据えた経営戦略を
>立てている。
世の中の流れを正しく捉えた戦略が
必要。

良いですね。
素晴らしい社長です。応援したい。

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