最終話:ありがとう。また逢えるよね
最終話:ありがとう。また逢えるよね
~ペットを看取るということ 天国の犬からの宿題~
最終回です。
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しばし躊躇したものの、やはりこの言葉が本コラムを
締めくくるにあたり一番ふさわしいと考えた。
そこには、ヨークシャーテリアのピピと一緒に過ごした
11年5か月16日間への感謝、まだ見ぬ次の“仔”への挨拶、
そして何よりも、多忙な中、オフィスや家庭でこの連載を
読んでくださった読者への感謝の想いを込めた。
顧みれば、このコラムは極めて個人的な体験から
始まったものである。執筆の依頼を受けたのは、
昨年末にピピを亡くして、まだ気も張っている1月下旬。
その時点では、獣医療への疑問や提案、看病で得た
ノウハウを読者の皆さんと共有できればと願っていた。
また、ピピとの体験は人間の医療問題と共通部分もあると
感じており、そんなことも浮き彫りにできれば…と気負っていた。
まだまだグリーフィング・プロセスにおける初期の段階だった。
私にとって、その作業はピピを偲び涙を流すという単純な
ことではなく、内面をみつめ、人生の夢を問われ、
苦しさを楽しさに変えなければ及第点はもらえないという、
難しい宿題だった。
ペットロス症状の自覚よりも、人生の節目の修業中に
あったという方が、ぴったりくる期間であった。
執筆することにより心の整理ができたかというと、
実は悲しみが一層現実味を帯び、当初は涙をぬぐわずに
執筆を続けることはできなかった。
そして回を重ねるごとに、少しずつではあるが私の心は
悲しみの渦中から歩みでて、俯瞰して全体を見渡せるように
なっていった。
それは「時薬」なのか、多くの人と一緒に考えたい
現状のテーマが整理でき始めたからなのだろうか。
しかし何よりも大きかったのは、読者の反響である。
「私だけではないのだ」と心動かされるような
エンパシーに満ちたコメント、さらに助言の数々には
励まされた。
この場を借りてお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
現代のコンパニオン・アニマルを囲む環境は
日進月歩であると思いたい。
獣医療の選択の幅も、第7話で書いたように先端医療から
代替医療まで広がってきている。
例えばピピの場合にも、薬の適量や飲み合わせを
計るためにオーリングテストも活用した。
高齢化社会にむけて、単身オーナーとコンパニオン・
アニマルとの「老老介護問題」はここにも存在する
であろうから。
ピピの体験から自宅で看取ること(第1話)が、
残された者にとって、大きな効用をもたらすことを
実感したことも、そのように考える理由の1つである。
コンパニオン・アニマルを失った悲しみを癒やすものは
喪失感を癒すには共通体験者
(コンパニオン・アニマルを失った経験のある人)との
意見交換も良いが(第6話)、「よい聞き手」である
他人も気兼ねなく感情を吐露できる。
私の場合、先述の曹洞宗長福寺僧侶、横田晴正さんが
そんな人であった。
彼は自身が12歳の時、猫に命を救われ、動物の供養が
したくてサラリーマン体験後に出家したという
新潟在住のユニークなペットロス・カウンセラーであり
僧侶である。
縁あってピピの旅立ちから23週目の土曜日、
横田僧侶に会うこととなった。
蘆花公園近くの瀟洒な建物に入ると、シンプルな墨衣を
まとった小柄な横田僧侶が気さくに迎えてくれた。
私はその親しみやすい雰囲気にほっとした。
開口一番「お写真をお持ちですか?」と問われ、
持参したアルバムを見せた。
すると子供のように目を輝かせ、にこにこ写真を見て
「わぁ、かわいい。
この舌を出しているところがなんとも…」
「このちっちゃい尻尾。ここに書いていらっしゃるように、
この尻尾で何度癒されたことでしょうね」と楽しそうだ。
そんなおしゃべりは、これまで我知らず封じ込めていた
感情を、やさしく撫でるかのようで心地よかった。
涙よりも、一緒に暮らしていた時にいつも感じていた、
ピピを誇らしく思う心の高まりが久々に蘇ってきた。
「私はご供養をする前にまず、コンパニオン・アニマル
とのことを十分に聞かせていただきます。
最期と最初の出会いのエピソードは特に大切です。
ただ、ご供養するだけならば誰がしても同じですから」
と彼は言う。
「動物用のお経ですか?人と動物もどちらも、
喉仏の形は一緒なんです。
そこに同じ仏さまがいるのです。
お釈迦さまも生きとし生きる者はすべて同じと
おっしゃっています。
ですからそこに区別する必要はないんですよ」
こう言って横田僧侶が私の家族へのものも含め
4種類の経を上げてくれた。
その間、私は初めてゆっくりとこの半年を
振り返る作業ができた。
それは自分をみつめ、周囲に感謝し、家族を思う
無邪気で素直な時間となった。
私の心の中でピピの存在は、日々薄れることはない。
その一方で思いがけない供養体験以来、
悲しみはやわらかくなり単純化されていっている気がする。
祈るとはそういうことなのであろうか。
もし読者の方々がコンパニオン・アニマルとともに暮らす
醍醐味と覚悟を、再度心に問う小さなきっかけと
なったとしたら、筆者として、それは望外の喜びである。
「ピピ、本当にありがとう。また逢えるよね」
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単なるペットという考えもあると思いますが、
私も、やはり彼ら、彼女らは、「家族」なのだと
思います。
その意味で、深い関心を持って拝読させて頂きました。
ありがとうございました。
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