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2007年9月16日 (日)

「評価」と「受け入れる」ということについて

 人は、ただ今を生きれば良いのに、まだ見ぬ未来を思い、
傷つくことがある。

 それと同様に、不必要な評価によって、傷つくことがあると思う。

 批判的な評価のみならず、肯定的な評価であっても、

 例えば、他人から見て、自分の評価は、良くあって欲しいと願う。
 他人の目を意識し、良い評価でありたいと願う。
故に、心の安まることはなく、その為の努力を怠ることもできない。
 結果、自分に自信が持てず、自分の価値を見いだせない
ということになるのではないでしょうか?

 評価などは、他人からの評価であれ、
自分で自分に下す評価であれ、
あやふやなもので、ほとんど意味のないものであると思います。

 他の人から、「馬鹿」と言われたからといって
急に「馬鹿」になるわけではない。
 逆に「頭がよい」と言われたからといって急に「頭がよく」
なるわけでもない。
 そんなものなのだと思う。

 そんなものに振り回されるのは、それこそ「馬鹿者」ではないか?

 評価は他人に対しても、自分に対しても、すべきものではないし、
意に介すべきものではないものだと考えます。

 人の価値は、相対的なものではなく、絶対的なものだと思います。
 人がなんと言おうと、その人の持っている、絶対的なもの、
価値というもが、誰にでも、どんな人にでも備わっているはず
だと思うのです。

 人は、誰でも、両面性を持っています。
 寛容でいられる時も、寛容になれない時も、
積極的になれる時も、そうでない時も、
何事にも勇気をもって当たれる時も、臆病になってしまう時も、
良い面もあり、悪い面もある。
 人が出来るのに自分ができないことも、
その逆もあるでしょう。
 でも、そんなことは、どうでも良いことなのです。

 それで良いとか、悪いとか言うものではないのです。
 人とは、そんな存在なのだと思います。
 人は、それぞれ違うのです。

 大切なのは、そのことを認め、受け入れること。
 良い面もあり、悪い面もある。
 出来ることもあり、出来ないこともある。
 しかも日々変化するのです。

 それが自分であり、そんな自分だけれど、そこから少しでも、
前進するために、何が出来るのかを考え、行動すること。
 そのことが最も重要なことなのだと考えます。

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